イスラエル軍から空爆を受けたレバノン南部の街スール(sur 英語ではTyre) August 7,2006 (C)aika kanou / Ray Angle LABO
3日ほど前、片づけをしていたらレバノンで宮嶋さん(週刊文春などで活躍する報道カメラマン宮嶋茂樹氏)が撮ってくれた写真に目が留まった。2006年、ヒズブッラーとイスラエル軍の戦いを取材していた時のものだ。(この戦争はWikipediaではレバノン侵攻(2006年)などと呼ばれているようだ)
空爆現場で空爆直後の写真をうまく撮れず、苦い顔でモニターを眺める私と、そのモニターを覗き込むフランス人ジャーナリスト、アレクサンドラ・ブーラ。彼女が誰なのかは宮嶋さんに教えてもらって初めて認識した(フォトエージェンシーⅦ(セブン)の共同設立者で有名なフォトジャーナリスト)。その後2007年に病死したと聞いたが、その時は特にそれ以上の情報を追及しようとしなかった。
そしてふと今日(10月5日)、彼女はどんな現場を踏んでいたのだろうと気になって、気になったらすぐに調べずにいられない性(ミリタリー系のリサーチャーを頼まれてからの癖)なので調べてみたところ……なんと今日が命日であった。パレスチナで脳動脈瘤となりイスラエルの病院で昏睡、フランスに移送、目を覚ますことなく逝ったという。
なんなんでしょうかこの偶然。よりによって今日が命日だと知らずに、その人のことが気になるって…何かに呼ばれているようで怖いんですけど。(霊感ゼロのワタクシが通りまーす)
アレクサンドラ・ブーラ氏と写真に納まったこの日は2006年8月7日。いつもの通りイスラエル軍の空爆は容赦なくドッカンドッカン街を破壊していた。たまたますぐ近くだったため「行ってみよう」となり、冒頭の写真を撮った直後に宮嶋さんと私とドライバーで車で空爆現場へ向かうと、二発目が30m先くらいに落ちてきた。これ下手したら死ぬやつ。運転手の機微で総力Uターン、空爆に巻き込まれるか否かの数秒でからがら逃げた後、空爆で亡くなったり負傷したりした人が担ぎ込まれる病院に向かった。そこにいたのがアレクサンドラ・ブーラ氏を含む欧米カメラマンたちであった。
宮嶋さんとアレクサンドラ・ブーラ氏
まあそんなわけで、関わりとしてはモニターを見せてくれと言われただけなのだが、今日という日に思い立ったのが何かの縁ということで。久々に投稿してみる気になったのでした。
レバノンの現場で見た彼女の姿は精力的で、言葉もフランス語は母国語だから当然として、英語の他にもスペイン語とか喋っていたような気がする。アフガンの言葉とかアラビア語も話せたのかもしれない。とにかく優秀だったことは間違いない。
彼女のリポートを見ることができる協会のウェブサイトを見てみると、2002年のパレスチナの現場なんかは私が行っていた時期とかぶっていた。
ちなみにこのレバノンの現場ではビデオジャーナリストで映画監督の綿井健陽さんと、宮嶋茂樹カメラマンと私の3人で民家と車をシェアしていた。特に約束して集結したわけではなく、別々に来て経費の都合上そうなった。何せ、ATMなどで現金を下ろすことがほとんどできない上、戦場ではすべての値段が高騰する。レストランも結構高かったし(開いてるだけでありがたいが)、自炊などをしてしのいだことが思い出される。
ほんとにたまたま偶然調べた日に命日だったという因縁?から、今日は現場に生きたフォト・ジャーナリスト、アレクサンドラ・ブーラ氏の写真を見ながらちょこっと家飲みしようと思います。献杯。
(一部敬称略)