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JAKARTA 1998 春

note1・この稿の写真はフィルムから焼いた四ツ切り程度の手焼きのプリントをスキャンしたものです。そのためプリントの縁が見えます
note2・超簡略化した回想録のようなものです

〔はじまり〕

幼少期から20年以上暮らし馴染んだ兵庫県芦屋市から、東京に引越したのは1998年のことだった。写真は独学、誰からも教えを乞うたことがなかったので、報道写真家を目指すステップに必要だろうと考え、高田馬場に出来た写真塾なるものに通うことに決めたのだ。

焼き討ちにあった華人の店。片づけててえらいなあ、と思っていた1998年当時
燃え残った金になるものを探していただけだったと思われる

ほどなくしてテレビや新聞では「インドネシア通貨危機」や「ジャカルタ暴動」が報道され始めた。wikipedia [ スハルト] 「スハルト時代の終焉」の項参照

報道写真家への通過儀式では?などと思ったかどうかは覚えてはいないが、「なんか行かなきゃ」と、はやる心を抑えられなかったことだけは覚えている。

ジャカルタのスカルノ・ハッタ空港に到着し、いきなり困惑した。案内標識や看板に書かれているのは英語のような文字なのに、しかしまったく馴染みのないインドネシア語は自分にとって100%意味不明だった。今のように誰もが簡単にスマホの液晶画面から検索して情報をとれる時代ではない。WiFiはもちろん飛んでおらず、海外の携帯はGSM。ドコモの携帯(※)は持っていたが、海外では使えなかったと思う。ローミングサービスはあったかもしれないが、バカ高い通信料を払う余裕はなかった。

(※) 今でいうガラケー。当然FOMAでもなかった。iモードさえなかった。余談であるが、iモードはこの稿にあたって調べたところ先月末⁼2019/9/30まで新規受付をしており2020年半ばまで使用できる、とある

そんなわけで、英語もほとんどわからない私は空港のツーリストインフォーメーションに頼ってホテルを探した。ジャカルタの地図もここで入手。ほかに持っていた情報と言えば、渡航前に中小企業診断士のタケウチさん(写真塾は貸し暗室を経営しており、タケウチさんはお客さんだった)が無謀な私を心配してインターネットからプリントアウトしてくれたジャカルタの一般的な情報だけだった。我ながら、こんなんでよく行ったなと思う。

インドネシア軍により安全のために道路が封鎖され、一台の車も通っていないジャカルタの目抜き通り
封鎖されたジャカルタの目抜き通り

〔現場はどこ?〕

空港を出るとすでに結構な夜中。むわんとした熱い空気が体にまとわりついた。と思う。というのは、私の中でタイのドンムアン空港の記憶とごっちゃになってしまっている。同じ東南アジアで湿度が高いというのも混同の一因。

考えるに、私たちが思うより記憶の置き換えや記憶違い、というのはわりと頻繁に起こっている。だから記録はとても大事なのだ、と今ならわかる。若い頃は「そんな人の言ったことや行動を一字一句、いちいち覚えてるなんて嫌な奴」と言われたこともあったが、もう若くもないし興味のないことは覚えられない。ましてや記憶を掘り起こして文章を書くのは一苦労なのだ。「note」で過去の取材を書こうとしたこともあったが、最初のジャカルタのことは驚くほどなーんにも思い出せなかったため頓挫した。

ホテルに着いて寝て起きて現場へ。しかし、どこが現場なのかコネもツテも、(しつこいが)もちろんインターネットもない私にはわからなかったので、とにかく歩いた。赤道直下の都会で何キロも徒歩で行くのはクレイジーだったなと振り返って思う。タクシー乗れよ、とタイムマシンに乗って言ってあげたい。

ジャカルタ、ジャランジャラン(ジャカルタ散歩)。目抜き通りを封鎖するインドネシア軍や、公園で待機する田舎の方から来たと思しき若い兵士たちを撮影した。若い兵士たちが装甲車の上に乗せてくれて写真も撮ってくれたが、ピントはあっていなかった。ガクッ。

道端で待機・警戒する装甲車に乗せてもらった筆者。インドネシア軍兵士が傍らに立っている
装甲車に乗ったよ。わーい。でも当時は戦車だと思っていたよ。ワッショイ!


ちなみにこの頃はミリタリーに縁がなく、装甲車と戦車の区別はついていない。翌年の年賀状に採用したら「愛夏が戦車に乗ってる!」という反応が友人たちからあった。当時の私も含め、それが大体の日本人の認識。

もっと言うと、高校時代は漫画研究部にいてわりといい加減な漫画を描いていたのだが、その中で米軍の輸送機が爆撃しているシーンを描き、後輩男子に爆笑されたことがある。乏しい資料から描きやすい米軍機を選んだのが敗因か。戦闘機と輸送機があるなんて17歳の高校生女子は知らんかったもんね。

で、激しい現場はどこ?どこやねん?

大学だ、という情報を誰かから得て、とりあえず「インドネシア大学」に行ってみた。デモ参加の若者たちが大勢たむろしていたが、やたらまったりしており「ここじゃないな」という感じ。

大した情報も写真も撮れないままに日程は過ぎ、当然クライマックスを見逃した。独裁31年のスハルト大統領が辞任することになった、という新聞一面を現地で見て帰国。

インドネシア人の少年が新聞の束を持って、その一面をカメラに向けている

カメラもショボく、プロでもない。とりあえず現場を体感したい、と渡航したジャカルタだったが、写真塾の影山頼嗣先生は「本気」を感じ取ってくれたみたいで、写真週刊誌FRIDAYに紹介してくれた。28歳の春。バカボンのパパより3歳若いな。

そして、ハジける現場を求めてこの後もジャカルタに数度通ったのであった。

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